JBCHインストラクターインタビュー
第1回 山田美妙氏
「自分とのコミュニケーションを整える」銀行員・看護学校の講師など豊富なキャリアを経て、ヒプノセラピストへ。広島・尾道で36年間、主婦から議員まで幅広い層に愛される、美妙先生が変わらずに大切にしていることとは。
全国で活躍されているJBCH認定ヒプノセラピーインストラクターの方をゲストにお迎えし、その豊富な知識と経験をもとにさまざまな角度からお話を伺うインタビューを連載でお届けします。初回のゲストは広島県尾道市で活動されている(株)セプルミエール代表の山田美妙先生をお迎えしました。
(インタビュアー:辻口真紀)
<山田美妙先生プロフィール>
広島銀行勤務を経て
尾道市医師会看護専門学校、准看護学院心理学講師
尾道市医師会看護専門学校カウンセリング室担当
尾道市市立病院カウンセリング室「心の相談室」担当
日本教育カウンセラー協会認定カウンセラー
日本教育カウンセリング学会会員
日本催眠学会評議員
日本臨床ヒプノセラピスト協会認定講師
国際催眠連盟認定講師
TA(交流分析)認定トレーナー
米国NLP™協会認定トレーナー
ヒューマンアカデミー校中四国エリア心理学講師(交流分析、NLP,ヒプノセラピー)
エフエムふくやま放送レギュラー番組出演中
私立各種学校教職員連盟認定洋裁教師
2016年5月 村井先生尾道前世ワークショップへご招待
ブライアン・L・ワイス博士前世プロトレーニング終了
2018年4月 ワイス博士日本公演時、島根県出雲大社にワイス博士ご夫妻をご案内
有限会社 ニシマキ産業 専務取締役
株式会社 セプルミエール 代表取締役 セプルミエール校代表
2021年12月 『ことばの花びらをあなたに - 幸せへの処方箋』を上梓
商標登録3種
美妙先生は活動を始めて今年36年目を迎えられたということですが、どのようなご活動をなさってきたのですか?
法人を立ち上げる以前は奉仕活動が多かったように思います。カウンセリングは銀行員時代からで、最初は恋愛問題が多く、自分がどんな人間かを知りたい人も沢山いました。当時は姓名判断が主となり、行員も80名くらいの方々がいて噂が広まって様々な相談が入ってくるようになったのです。
私の言葉がその人の人生を変えることや、人はネガティブなものを先にキャッチすることがわかってきて、まずはストローク(承認)をすることに気づかされました。承認をしてその人の意志を尊重しながら、ネガティブなものを伝えていくという流れでした。多くの人との関わりの中で様々なことを教えてもらいました。
その活動を通じて、カウンセリングの勉強をすべきだと感じ、まず始めたのが産業カウンセラーでした。そこから教育カウンセラー、アサーション、フォーカシング、NLP、TAなど、休日を利用して学びました。基礎心理学の必要性を感じて、49歳で通信大学に入学しました。
尾道で初めての学童保育を立ち上げる話があり、手伝いに来てほしいと依頼がきて何か意味があるのだろうと思い銀行をやめて、学童保育立ち上げのお手伝いをする為に保育園に関わったのです。
0歳の子たちのお世話のお手伝いをして、ひとりひとりが全く違う個性があることにも驚きました。
まず、人の食べ物をとって食べちゃう子もいれば、食べたくなくて泣く子もいれば、黙々と食べる子もいればと、どうしてこんなに違うんだろうと疑問を抱いたのと同時に、生後の親との関わり方、子供のこころの成長など、幼児の心理学にも目覚めたのです。
尾道市医師会のご縁で看護学校の授業や、市民病院でのカウンセリング室の担当など、いろんな仕事が入ってきました。現在、看護学校の講師も15年になります。年齢的なことを考えて、辞めようと思っていたのですが、今年はカリキュラムの大改革の年になってしまいました。
今までは患者さんの心理で医学書院テキストを中心に、急性期、慢性期、終末期医療だったり、様々な心理学の授業を伝えてきました。
本年度は「患者の心理」と「人間関係論」「コミュニケーションスキル学科」の基礎作りの依頼が医師会から来ていますので、もうひと息頑張ることにしました。今年から2学年3教科を担当することになったのです。
また、(株)セプルミエールという法人を立ち上げて11年を迎えました。そこではカウンセリング事業を主として、セラピスト育成、カウンセラー育成、トレーナー育成、講演会活動、企業研修、子育てセミナーなどの活動をしております。
ヒプノセラピーを学ばれたきっかけを教えてください。
私自身が波乱万丈の人生でしたから、幼少期からなんのために生きているのだろうとか、どんな役割があるのだろうとか、生きる価値って何だろうとか、どこから来たのだろうか、とかいった根源的な疑問を持って生きていました。
私の家族は兄弟と両親だけでなく、いとこが一緒に育ったり、おばさんがいたりと複雑な人間関係の中で子供時代を過ごしました。何かあると川辺でハーモニカを吹いたり、山に登って下の様子を客観的に見て感じたり、遠くを見てどんな町があり、どんな未来があるのかなあと、いろいろなことを考えていた不思議ちゃんでした。
育った地域は山奥でもダムや発電所、製炭業の大住宅などがあって、他地域からの転勤の人や海外からのいろんな人が住んでいました。たくさんの人たちとのご縁と、出会いや別れも多かったです。
大きな事故にあい後遺症に苦しみ人生の中で生きていくことが辛くなったときに、出雲大社で修行のご縁をいただき、そこで神様の世界に出会いました。
出雲大社はご縁の神様だと思っていらっしゃる方が多いですが、実は幽世(かくりよ)の世界を司る神様でもあるのです。あの世を守る神様です。そこでの修行の中で、あの世の世界というのを教えていただきました。
亡くなった人たちの魂を供養したり、般若心経をあげ、大海原に依り代(よりしろ)を流すのです。それは魂の浄化向上のためです。表には見えない部分ですから不思議に感じられるかもしれませんね。
本殿で夜中に祝詞をあげる修行をするために、滝で身を清めることや、輪廻転生などたくさんのことを学びました。どう生きていくべきか、生きる姿勢、人に対する真心、自分の心のあり方、人を恨んだり憎んだりしない、しなくて済む生き方です。それが未来世に反映されるのですから心の修行だったと思います。
もっと深いものがあるんじゃないかと思っていたときに、エドガー・ケイシ―を翻訳された方から「転生の秘密」の本を2冊頂きました。その本で前世が一致しました。そのころの私は透視能力も身についていて、人を見たら家系から人の生き様や問題点が見えたり、その人の影の部分、背負っている苦しみや悲しみとかが見えてくるようになりました。会話をするとその人の前世も見えましたが、あなたの前世はこうですよと言ったとしても、そこに価値は生まれないと思いました。
それよりも、どうしてこうなったのか、どうして今この人生を歩んでいるのかということの方が価値があって、それがこの世の修行でもあり、自分磨きなのだと思えたのです。その頃、前世療法の教えをされている先生に会いたいと思っていました。
そんな時、奇跡的な出会いがあったのです。
私はNLPのトレーナーでもあり、トレーナーとしてアメリカへ受講生達に同行していたことがありました。
その時のNLP仲間から、村井啓一先生とブライアン・ワイス先生の存在を知ったのです。
村井先生の元で学ばれた方が講座を開催されることを知って、私はすぐに開催地の仙台まで飛んで行きました。
その後、村井先生の教室に通うようになって、こんな出来事があったのです。
オメガのブライアン・ワイス先生のセミナーがあることを聞きました。その時、私はすでにフロリダで行われるNLPのコーチングトレーナーの講座に申し込んだ後でした。
ほぼ同じ日程でしたから行けないと思ったのですが、私の思いはNLPではなく、今回はブライアン・ワイス先生の学びに行きたいと感じた瞬間でした。
受講費も振り込んだ後でしたが、村井先生の教室から休憩時間にNLPの協会に電話すると、今日までならキャンセル料は発生しないって言われたのでした。更になんと村井先生のところは残り1席でした。ブライアン・ワイス先生のオメガは人気で応募者が多くて、そう簡単に入れなかった時代に奇跡的に入れたわけです。
それまでも催眠の学びはNLPを通して5人の先生から学んでいましたが、村井先生とブライアン・ワイス先生の催眠は全く違う教えでした。その人を尊重する、その人の意志を大切にする、セラピストの価値観を入れないという姿勢を教わりました。それが一番純粋であり、クライアントさんが求めるところにいち早くたどりつくような気がしました。
それからは無我夢中で村井先生のところで学びました。
初めは前世療法をひたすら実践したものです。結果よりも過程が知りたい気持ちが強く、その過程の中でその人が成長できる可能性がどこにあるのか、どういう人生を歩まれたいのか、クライアントさんの望む意志はどこにあるのか、男性も女性も、自分の過去を知りたい!と思う人が多く休みなくやり続け、たくさん学ぶ機会をいただきました。
オメガにてブライアン・ワイス先生と
村井先生との初めての出会いで印象に残っていることは何でしょうか?
村井先生とは2014年5月に岡山で開催されたJHA(日本ホリスティックアカデミー)のベーシックコース開催100回記念講座を受講したときに初めてお会いしました。
それまで村井先生のホームページを見て、こういう方だろうとイメージしていましたが、実際にお会いしてみると素朴な方でした。「僕は先生なんだよ」という先生ではなく、ありのままで同じ立ち位置で関わってくださる方でした。カウンセラーとしての知識とは全く違う教えであり、目からウロコ状態が続いたのです。
教えは惜しみなく伝えてくださり、「学んだものは人に伝えてこそ新しい知識がまた入ってくる」というのは衝撃的でした。
そこから私も惜しみなく伝えるという考えに変わりました。
村井先生による尾道での前世療法の講義
コロナ禍での活動に変化はありましたか?
今はセッションも授業もオンラインが多くなりましたが、コロナ禍になる以前からオンライン授業をしていました。交流分析は、海外とオンラインで講座やカウンセリングなども行っていましたから、コロナ禍になって慌てることはなかったです。
出張がなくなり移動時間も軽減されたので、その時間を利用して以前から書き溜めていた物を本にすることに費やし『ことばの花びらをあなたに - 幸せへの処方箋』が生まれたのです。お陰様で地元の書店・啓文社のベストセラーランキングで7位に入りました。
『ことばの花びらをあなたに - 幸せへの処方箋』
(株)セプルミエールにはどんな方が多く学びにいらっしゃいますか?
最初は会社員とか、主婦の人とか他県で出会った受講生が多かったのですが、近年は税理士、社会労務士、行政書士、社会福祉士、精神保健福祉士、看護師、ファイナンシャルプランナー、教師など専門職の人がとても多いです。議員さんや看護師長さんなどリーダーも多く、今はリーダー研修も増えました。
コロナ禍で閉鎖的な環境になり、人を理解したい、自分を知りたい、人をどの様に指導したらよいか悩まれている人も多くなったと感じています。
人に関わるときは、自分自身のコミュニケーションを整えてからという思いは強くあります。
自分のコミュニケーションというのは顕在意識と潜在意識のバランスです。リーダーというのは指示命令が多いので、聞いているようで聞いてなかったということもありがちです。個人を知る一つの方法としてパーソナリティ分析があります。それに特化したものを開発していて、そこには無意識も出てきます。優しさは反面、依存という裏の面もあるのです。
リーダーとして偉そうに言っていたけど、僕はこの人に依存していたのかということに気づかれる方や、指示命令ばかりして人の話を聞けていなかったことを発見される方もいて、多くの気づきからご自身が変わられ楽になられる人は多いのです。
議員さんの方で「恥ずかしい話、離婚したい」とある人に話しをしたら、「その前に山田先生のところへ行ったほうが良い」と勧められていらっしゃったことがありました。
催眠療法で時をかけて奥さんとじっくり人格移動で会話しました。すると、僕は妻の話しを全く聞いてなかった、妻を理解してやってなかったと涙されました。
帰宅してから、「僕が悪かった、ごめんね」と、奥さんと向き合い長い時間対話されたそうです。
今は幸せに暮らされています。
教室(左)と野外実習(右)での講義
インストラクターとして、美妙先生の信念や大切にしてらっしゃることを教えてください。
先ほども話しましたが、「自分とのコミュニケーションを整える」という方法です。
感情のリセットですね。感情にとらわれないということであり、まず自分を整えてクライアントさんに関わるというのが、セラピストとしても大事だと私は思っています。心に余裕のない状態のままや、さっきまで仕事していてその仕事時の感情にとらわれたままクライアントさんに接してしまうのは、申し訳ないと思うのです。
セッションをする前は音楽を聴いたり、祝詞をあげたりをして自分の心を整えてからクライアントさんと関わることを心がけています。
また、「セラピストの価値観を入れない」で、クライアントに寄り添うことの大切さは村井先生から学びました。それ以来、セッションがものすごく楽になっています。時をかけながら、クライアントさんの過去世を含めた全人生に寄り添い続けることでしょうか。
クライアントさんの心の中に押さえ込んだ意志を表出させることも心がけています。
セッションは早いと1時間で終わることもありますが、4時間以上になる時もあります。現世から過去世へ、また未来へ行ったり、現在に戻ったり時空を飛び交っていきます。クライアントさんはそうして心の整理や荷下ろしをして、心が軽く成られるのでしょう。
「愛と思いやりと優しさ。地球は学びの学校。」とはブライアン・ワイス先生から学びました。
どんなに困難で危機的状況だと思えたとしても、どのような学びをしなさいと言われているのだろうかと、心をそこに持っていくのです。すると、悲しいとか苦しいとかいう思いよりも、どんな解決法があるのだろうかと考えるようになって、心が未来へ向いて楽になり、解決の糸口も見えてくるものです。
出雲大社にワイス先生ご夫妻をご案内
意志についての美妙先生ご自身の経験をお聞かせください。
実は両親が指示命令型で、親の言う通りの高校を受験したのですが、私の望む学校ではないと心の中で涙を流しながら通学していました。別の高校に行きたかったと思っていたとき、「道」という松下幸之助さんの詩に出会いました。その詩を何度も何度も読んで、自分には自分の道があり、自分の道を歩いていいのだって思ったのです。それは高校1年生のときでした。
親にも学校の先生にも内緒にして一人で手続きをし、希望校にチャレンジしました。
合格して新聞の紙面に名前が載り、親も学校の先生も私の合格を知ったのです。私は自分の意志を出して、こんなに人生が変わるのだということを知りました。自分の意志が叶えられたとき、嬉しくて幸せいっぱいでした。
果てしない未来が開ける気がしたのです。
村井先生との出会いの中で、「アメリカのオメガ・インスティチュートでブライアン・ワイス先生に会いたい」という強い意志が表出した時は迷いがなかったです。
意志の尊重は、悲しかったり苦しかったりした時に自分を抑えてきた時代があったからこそだと思います。
人はいろいろな事情や自分を取り巻く環境で、自分を無理にリセットしたり抑圧したりします。そうであっても本当の自分の気持ち、意志は無きものにはしてほしくないのです。その思いを大切にするということ、それを浮上させることが、未来へ続く道だと思うのです。
私自身そこにたどり着くまでは悲しかったし、親のいうとおりに行動していたときはすごく辛くて、もがいていたと思います。高校時代は、親元を離れて自炊しながら通学していたからこそチャレンジができたのだと思います。
抑圧された環境の中で自分を出せなくて、もがき苦しんでいる子たちは大勢います。
親の指示命令で自分の意思を抑えられた結果、感情障害になってしまった事例もありました。
人生の中で本当にどうしたらいいかわからないこともあるけれど、それは一つの成長のきっかけだと思うのです。人が成長するために与えられた課題だと思います。それを乗り越えたら、またステップアップした未来が待っているはずなのです。
関わった皆さんが一瞬でも輝けることが出来て、幸せになってほしいと思っています。
ワイス先生ご夫妻と美妙先生
【こころに残る事例1 - 命とのお別れ】
このクライアントさんとは命の最後まで関わりました。来られたときは45歳で末期癌と話されていました。知人の紹介でいらしたのです。
催眠療法については何も知らずに来て下さったので、催眠療法の内容を伝えましたら、全て受けてみたいと言われたのです。「どんなことが知りたいですか?」の問いに「病気のこと」でした。
体細胞療法の旅を始めたのですが、退行するといきなり、子供のころのお父さんに海のそばにある木に吊り下げられた恐怖体験が出てきたのでした。時間をかけてお父さんとのコミュニケーションを完結し、幼少期の心の傷を癒しました。
その後、病の原因を知るためにがんとの対話をしました。すると、彼女はものすごい頑張り屋さんだったのです。学校改革をするために、自分を犠牲にして頑張っていました。
この病が気づかせてくれたことは、人のために生きることも大事だけど、自分の人生を生きることの大切さでした。
既にガンが転移して進行していましたが、心理学を勉強したいと、自動車で1時間半かけて学びにきて下さった時期もありました。様々な角度で自分を知る涙々の日々となり、自分を愛おしく思われる様になられていきました。やがて動けなくなり、オンラインに切り替えセッションをし続けました。
身体の浄化セッション後、「体の中から黒いものが出てきたよ。すごく体が軽くなったよ」と、嬉しそうに電話をくれたときは私も嬉しかったです。彼女とのセッションを何度も繰り返しました。
2020年2月に私はニューヨークの福祉研修から帰って、入院している彼女にアメリカのお土産を持って会いに行きました。彼女は喜んでくれて「今度は私もニューヨークに連れてって」と会話に花が咲きました。お別れのとき「先生、今日私は幸せだったよ」と彼女が言ってくれました。
一生懸命生きている彼女が愛おしくて、彼女を抱きしめ、お互い声を出して泣きました。全身の筋力が失われていることにおどろきと悲しみが込み上げました。
それから5日後に彼女は未来世へ旅立ったのです。
葬儀のとき、彼女はとても爽やかでした。未来世の旅もたくさん歩んでいたこともあって、私は「また会えるね」そんな気持ちでした。「みんな来てくれてありがとう。また会えるのに泣かないで」という彼女の明るい声が聞こえてくるようでした。
命とのお別れのときは、未来世をたくさん語り催眠で歩んでみることを心がけてきました。
夢や希望を持って旅立つことがとても大切であることも、催眠療法から学んだのです。
【こころに残る事例2 - 失語症からストレスヒーリングで元気に】
自宅の火災で全てを失い失語症になった20代女性が、病院の紹介で両親に抱きかかえられておいでになりました。
声が出ない彼女でしたから、涙が流れている状態が続いていました。絶望の果てにいる感じでした。
両親の話を聞いたところによると、火災は類焼で自分の家が原因ではなかったそうです。余計悲しかったのだと思います。私は大切にしていた外国で購入した私の宝物を彼女にプレゼントしました。
その時の彼女の状態では催眠療法しか考えられなかったのでした。
お母さんと一緒に催眠療法のストレスヒーリングを試みました。今振り返るとお母さんと一緒がよかったのだと思います。1時間ぐらいかけて、いろいろ統合したストレスヒーリングをしました。すると、こわばっていた顔が優しくなり、帰られる頃には一人で歩けるようにまでなりました。
その後はことばが少しずつ出るようになり、ひと月の間にストレスヒーリングを3回受けられて日常生活が出来るほどに回復されたのでした。今でも、元気に仕事をされている様子を毎年の手紙に書いて下さっています。
なによりも彼女の回復に驚かれたのは、病院の先生をはじめとしたスタッフの皆さまでした。
【こころの残る事例3 - 退行催眠・命の誕生】
命の誕生です。
四国の学校でヒプノセラピーを受講された30代の女性です。
「私は結婚しているけど、子供を産まない約束を主人としています」と講座中に言われました。
私はこれは何かあると思ったのです。
講座は全3回で、最終日にデモセッションを行います。彼女に受けてみる意志があるのか聞いてみると、こころよく承諾してくれたのです。子供を産まない気持ちがどこで芽吹いたのか、退行の旅を始めてみました。すると、なんとお母さんのおなかの中に行き着きました。
お母さんとお父さんが毎日毎日、子供ができたことで喧嘩していたのです。望まない妊娠だったのです。
お腹の中の彼女は、「私は生まれちゃいけないんだ。生まれても幸せになれないんだ」と、悲しかった思いを感じ、そして同じことを繰り返してはいけないと思っていたのです。
それに気づいてからは、誕生してからの幸せな記憶をいっぱい思い出してもらいました。両親との幸せな記憶を思い出して、「私はこんなに愛されて、こんなに幸せだったんだ」と彼女の目から涙が溢れてきました。
お別れの時「先生ありがとうございました。心がものすごく幸せになりました。」と話してくれました。
数日後「主人と話しまして、恵まれるものなら子供を持とうという話になりました」と彼女から連絡がきました。そして、その半年後には妊娠の連絡が来ました。赤ちゃんの誕生の日には「かけがいのない命をいただいて本当に先生に感謝いたします」と写メールも届きました。毎年子供さんの成長とともに年賀状が届きます。
お母さんのおなかの中に戻れるのは催眠療法しかありません。時空を飛び交い、自由にどこへでも行けるというのは催眠療法の素晴らしさなのです。意識を変えることも早い。それは催眠療法のなせるスキルです。
活動を始めてから36年目を迎えられたということですが、これだけ長い年月にわたって活動を継続してこられたその秘訣とこれからの未来への展望をお聞かせください。
長年活動してこられたのは皆さんに支えられたおかげです。
(株)セプルミエールを立ち上げてからは、1年の計画をたてコンスタントに講座を開催していました。
学校も医師会も講演の仕事もそうですし、セミナー、企業研修、カウンセリングから広がり、皆さんの紹介からお仕事をいただいています。受講生さんやセッションを受けられた方々から多くの紹介をいただき助けられています。
ラジオのFM放送でも、レギュラー番組が3年になりますが、コマーシャルを流してくださったり、FMの局長さん、スタッフの方々から応援をいただいたり、催眠の理解を深めてくださったり、あちこちで宣伝していただいています。
感謝しかないのです。ヒプノセラピーの認知度が広がることはとても嬉しいです。FM放送でヒプノセラピー事例を朗読する予定が組まれているそうです。
尾道医師会の学校で教えるときも、催眠を知ってほしいという気持ちから最後の授業でヒプノ体験をプレゼントしています。
前世療法や退行療法や、未来世療法などの希望を聞いて1クラス50名ぐらいいますが、グループ誘導しています。
体験された生徒の皆さんは毎回とても感動してくれています。
そして私の人生の集大成として、「こころと身体と暮らしのサポートセンター」というセンター建設を今年着工します。これは、福祉活動とこころ豊かに人生の終着点へ向かう総合センターなのですが、長年の目標であり、私の夢でした。ここで今までどおり講座と催眠療法も実施していく予定です。
(株)セプルミエールで成長して来た皆さんは、税理士、社会労務士、行政書士、社会福祉士、精神保健福祉士、看護師、ファイナンシャルプランナー、教師、公認心理師、企業リーダー、ヒプノセラピスト、TAトレーナー、NLPトレーナー、整体師と頼もしい方々がいらっしゃいますので、皆さんと力を合わせ、医師会や地域社会と繋がりながら社会福祉活動に力を注ぐ活動を付加していきます。
おかげさまで、地元の方が社会のためになるならと言って土地を提供してくださいました。深く感謝しています。
この36年間、たくさんの子供達や人々と関わり、幸せになる為のサポートをしてきました。その中で、幸せとは思えない時代を乗り越えて、立派に成長して結婚している子供たちも大勢います。
私が住んでいる高須町は、尾道で2番目に人口が多い地域です。そこに気がねなく相談にいける場所がないのです。音楽があったり、癒しがあったり、語らいがあったり、食あり、学びあり、といった総合センターとして、ひとりぼっちにならないための居場所作りでもあります。
今、コロナ禍で孤独になっている人たちがすごく増えています。程よく落ち着ける小ホールと大ホールを作り体操や映画や歌やリハビリダンスなどが楽しめる場所にして、地元の人たちに憩いのひとときを過ごしていただけるようにしたいと思っています。
センター設立のもう一つの理由に、(株)セプルミエールで学んで成長してくれた大勢の人たちが活躍できる場を提供したいという思いがあります。私は老いて今の世を去る時が来ますが、若い人たちの活躍の場を造っておきたいと思いました。
皆さんが繋がって何かを目指す。それが未来を生み出すと思うのです。社会の発展となって地域にも貢献でき、個々の自己実現へと繋がると思うととても嬉しいです。
初期のセッションルーム(左)と、現在のセッションルーム(右)
ヒプノセラピーを学びはじめた方や、ヒプノセラピストを目指すJBCH会員の皆さんへのメッセージをお願いします。
修行中の私が伝えられる立場ではないのですが、私の経験から言いますと、その人の全人生に寄り添うという意味ではいろいろな角度からそのひとを理解するため、ヒプノセラピーの勉強だけではなく様々な知識を統合して人々に寄り添っていくこと、どんな時も謙虚でいることでしょうか。
そして、ヒプノセラピーにしかできないことがあります。クライアントさんの魂や影に光を当てて、輝かせてあげることが出来たら幸せです。潜在意識の世界を慈しみ、時空を自由に飛び交い、前世やおなかの中から未来まで飛んで行き、亡くなった人にも会えるのはヒプノセラピーの素晴らしさです。
若くして私の主人は病で未来世へ旅立ちました。私が絶望の中にいた時に、また会える、魂がいつもそばに生きている、と感じられたのはヒプノセラピーを体験し学んだからなのです。
ヒプノセラピーをクライアントさんと共に体験するたびに感動しています。
ブライアン・ワイス先生、村井先生でしか学べない知識とスキルがあることも誇りです。
これからも学びを深めながらJBCH会員の一人として、日本臨床ヒプノセラピスト協会の発展を願いつつ活動を続けて参ります。
美妙先生、学ぶところの多い数々のお話をありがとうございました!